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感情の喪失は悲しむことじゃない。

物語と感情を結びつけてしまった世界からの離脱

今回は写真から離れたテーマなんですが、自分の中でとても大きな部分を占める考えになります。それとは10年ほど前に出会いました。そしてその考え方とは真逆な世界が未だに闊歩してることに気付かされたこともあり、この記事を書くことにしました。 とは言っても自分もこの考えを教えてもらった立場であるので、ここではその存在とその考えについて書きます。

 

出会いは必然

 自分には5年ほどの間、病気のように活字を求めていた時期があります。オフは必ず1日1冊以上、多い時で2冊読む終えることもありました。その5年の間にすれ違ったストーリーや人間の数に比べ、学べたことはあまり多くはありませんでした。ただその数少ない学びの1つ1つは自分の中で胡座をかいているほどに大きな存在です。

この記事のテーマはとなる感情にまつわる話が書かれた本とは、実家で出会うこととなりました。自分の活字中毒時代の終盤は啓発/ビジネス辺りを読み漁っていました。そんなある日、読む本がない深夜だったと思います、既に定年して老後を過ごしている父親が、ビジネスマン時代から手元に残している数少ない本達が目に入りました。その中から取った本がそれで、裏表紙には¥12,000と書いてありました。素直に、そんなバカな、と思いました。著者である中村天風は多くの著名人から敬意を払われていた人のようで、その人の経験談を本にしたものでした。その本から自分が学んだことは2つあり、1つは呼吸法です。これはヨガから取り入れられたとのことですが、チャクラの一番下に位置する丹田に重きを置いた呼吸法を紹介していました。大事な場面、決断や決意などの際に心が浮ついているとすれば丹田に気を集める必要がある、それを簡単に行えるというクンバカ法という呼吸法が紹介されていました。そして2つ目がこの記事のテーマとなる「感情」についての話です。

 

感情に流されることぐらい動物でも出来る

具体的な表現は覚えていませんし、興味のある人には是非読んで貰いたいと思っているので、ザックリ書くだけにします。
いわゆる感情というものは人間だから持っているのが当たり前という考えに重きを置いていては、ある意味自分は動物だといっているというわけです。なぜなら動物にも感情があることは一般的にも知られていることだと思います。その上で、感情を制御出来る知能があることが人間であり、それを利用しない手はないということが書かれていました。
怒りたい時、泣きたい時、感情に流されたい時は誰にでもあると思いますが、それを制御出来る知能も自分にはあるんだということを忘れてはいけないという話です。
同時に、こういう時には喜ばなければいけないとか、怒らなければいけないといった役割を担わされる場面も社会の中には存在します。人間社会だとしても群れで動く場合にはそういった動物的な部分での共有意識を大事にする場合があっても不思議ではありません。もしそういった社会の一面に馴染めず苦しんでいる人は、数少ない動物になれるチャンスと捉えて楽しんでみるのもいいかもしれません。これはあくまでも自分の意見です。
感情を制御出来てしまう人間を感情的にするのはとても難しいことなのに、どうしてありとあらゆる場所で感情的になることが求められ、それがあたかも自然なことのように表現されているのだろうか、という違和感を一度でも感じたことがある人がいればこの先も麻痺しないで欲しいと思います。それは単純に自分の仲間が減ってしまうことが残念だからです。

 

悲劇が起こることと、それを悲しむことは全くの別次元(おまけ)

これは確か「神からの手紙」という世界的ヒット3部作の1部に書かれていた話だったと記憶しています。テレビや映画、小説、人付き合いの中でも"ある行動"と"ある感情"が当たり前のように結びついてしまっている場面が多くあります。それは実は別のものであり、悲劇が起きたとしても、それを悲しむかどうかはあなた自身が決めることが出来るという話です。悲劇=悲しいといった方程式に縛られていては幸せになれないということではありませんが、いずれにしても自覚している以上に多くのことが自分の判断によるものだということを改めて感じみてください。自分で思っている以上に立派な船長としてその人生の舵を取り続けていることに気付けるかもしれません。

この記事の続きとなる感情のない世界=武士道=写真道を近々書きます相変わらず文章構成に難ありではありますが最後まで読んでくれた人、ありがとう。